2015年9月4日金曜日

患者の非人格化

'I just have admitted an interesting sepsis'. Do we dehumanize our patients?
Kompanje EJ, van Mol MM, Nijkamp MD.
Intensive Care Med. 2015 Aug 14. PMID: 26271906


 ICMに掲載された文章

 若い医師が「興味深い敗血症症例」「食道切除した患者」「具合の悪いくも膜下出血患者」などと話しているのを聞くと、自分の家族や友人にもそのような言い方をするのかどうか不思議に思う。恐らくそんなことはしないだろう。しかし、我々はしばしば病名や術式や臓器の名前で患者を表現してしまう。なぜそのような非人格的・非人間的なやり方をしてしまうのだろう。
 他にも、交通外傷で深昏睡に至った18歳の女性の家族に予後不良を説明したそのわずか1時間後に、集中治療医やレジデントが談笑しながら病院食堂で昼食をとっているのをみることがある。患者の両親が直面している重大な問題に無関心なのだろうか。
 医療従事者は身体的・感情的痛みやストレス、不安、恐怖、担当患者の死に対し、それらを知る能力があるにもかかわらず徐々に不感症になっていくものである。つまり、感情を鈍化させることは臨床において必須の要素であるともいえるのである。
 その集中治療医は少女の死について両親に説明している時、実際に良心の痛みを感じているのではなく、彼らの痛みを密やかに推察するのである。彼らの苦しみを追体験することが必要なのではなく、その苦しみをただ知ることが望まれる。また、単に苦しみを「知る」だけでなくその苦しみを和らげる術を知らなければならない。それができないにしても、その場にいてそっとよりそうことならできるはずである。
 病名や術式、不全臓器について話すことは実務においては有用である。疾患、痛み、苦痛、死はICUにおける仕事の大部分を占めており、毎日これらにショックを受けているなどということは実際的ではない。非人間化することで対処しているといえる。それができなければバーンアウトにつながることもあり得る。
 そう、我々は非人間化してしまうのである。これは不可避で、適応のためには仕方なく、倫理的でさえもあり、生理学的にも受容可能なことなのである。医療従事者は患者の苦痛を「知る」ものだが、「感じ」てはならないのである。

◎ 私見
 意訳しているうえに、要約もしています。
 身につまされるというか、なんというか。大事なんだけど、分析したことがなかった事柄なのでとても興味深かった。「知る」ことすらしようとしない人もいるので、一度はこういう文章を読んでみるのが良いと思う。この意見に同意する・しないに関わらず、なにか考えるきっかけにはなると思うし。

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